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イケマックス

グルメとかサブカルとか新しい働き方とかを雑多に書き綴ります

「すべての教育は『洗脳』である」堀江貴文 ~今こそ「ブレーキを外そう!」いや、マジで~

 

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私はやりたいことをわりと躊躇なくやってしまう。

 

「でも」とか「今は無理」と思ったりすることはほとんどなく、「いまこれがやりたい! だからどうするか」を真剣に考えて同時に行動もする。

 

ただ、世の中の多くの人は「すぐ行動しない」。これは私がせどりやその他ネットビジネスを多くの人に教えた結果、実感したことだ。共感したり、理解してもなかなか行動には移さない。自己啓発書がバンバン売れてもお金持ちが大量に現れないのもこの辺が原因ではないだろうか。

 

その原因は「学校教育の洗脳にあるんだ!」と主張しているのが「やりたいことを躊躇なくやってしまう系」のカリスマとして私も常々リスペクトしている、ホリエモンこと堀江貴文氏。

 

 

学校とは一体何なのか?

小中高、そして大学と長ければ16年ほど通い続ける「学校」という組織。なぜ学校に行く必要があるのか? 堀江氏はこう語る。

 

「社会は、とくに旧来型の企業では、従順な働き手を求めている。したがってその養成段階である学校で子どもたちは道徳規範を叩き込まれ、学力という形で『従順さ』に点数が付けられていく」

 

つまり、国や企業のニーズにあった「従順な働き手」を育成するための養成機関。それが学校だ。親も子供もそれに疑問を抱かずに毎日学校へ通い続ける。

 

「受験のため、卒業のため、就職のため、どんな理不尽な勉強にも耐え、ひたすら情報処理能力を磨いていく。そんな従順さの指標が、受験社会における『学力だ』」

 

結果「異様に我慢強い子供」が大量生産され、いざやりたいことがあっても無意識のうちに染み付いた「我慢体質」がそれにブレーキをかけてしまう。我慢したまま一生を終える、それが「常識」だと思い込んだまま。

 

 

「国家」はなくなりつつある

明治以降、諸外国と対等に渡り合うために日本は「日本人」として一致団結して頑張ってきた。ただしそれ以前には「自分は日本人である」という意識は人々にはなかった。「日本国民」というアイデンティは比較的近代に作り出された「幻想」であり、その基盤を作り出していたのが「学校教育」だと言える。

 

明治から昭和にかけてその幻想は上手く機能した。戦時中は国の為に命を捧げる人材を、戦後はそのシステムを踏襲し会社に命を捧げる人材を多く育成した。

 

しかしその「幻想」は急激に失われつつある。その大きな原因の一つが「インターネット」だ。

 

今の時代、スマホ1台で大抵のやりとりは済む。つまりどこにいても仕事はできるので「場所の制限」がなくなってきているということだ。実際自分の決まったデスクのない「フリーアドレス」のオフィスが増えているし、決まった時間に出社しなくてもいい会社も増えている。

 

そしてもっと大きい枠組みで考えてみると「いつも日本で何かをやらなければいけない特別な理由」もなくなってくる。タイでもオーストラリアでも韓国でも、ネットにつながっていれば大抵のことは、どこでも場所を選ばずできる世の中になってきた。

 

つまり「私は日本人だから日本で生活して働く」というこれまでの常識が必ずしも当たり前ではなくなってきているし、日本の企業や実業家もアジアの金融や貿易の拠点であるシンガポールや香港に拠点を移している人も少なくない。

 

もちろん、「自分は日本で生まれて、今住んでる場所が気に入ってる」という人もいるだろう。それはそれで全然かまわないと思う。

 

 今後日本人は、場所を選ばず世界中好きなところを飛び回って仕事をしたり遊んだりする人と、自分の地元に愛着を持って生活する人に二極化されていくだろう。

 

堀江氏は前者を「G(グローバル)人材」後者を「L(ローカル」人材という分け方をした。G人材にとって自分がいる場所が世界中どこでも「活躍できる場所」でL人材は「仲間や家族がいる地元」があればいいわけでいずれも「国家」という枠組みは必要ではなくなってくる。

 

各地でおこっている移民排斥をはじめとしたナショナリズムの動きは実は「国家」が国民を引き止めるために必死に行っているものなのではと疑ってしまうほど、世界は変わりつつある。

 

「今、『世界』とつながるためのコストは極限まで小さくなりつつある。人はもう、大概の場所に簡単に行けてしまう。簡単に行けるということは、あえて行かなくてもいいということだ。『場所』の意味が失われたとき、都道府県も国民国家も、全ては『人生を楽しむためのファンタジー』に変わるのである

 現にに日本人の芸人の猫ひろしが『カンボジア代表』としてオリンピックに出場した事実だってある。甲子園の『南北海道代表』がファンタジーであるようにワールドカップやオリンピックの『日本代表』だってすでにファンタジーなのだ」(「すべての教育は『洗脳』である」より抜粋)

 

 

 

 

「幸せの正解」がなくなった現代

 

私が中学時代に好きだった「オヨビでない奴」というドラマがある。主人公の風間遊介はスポーツ万能だが勉強は全くダメ、というか最初からやる気がない。将来スポーツで食べていくために体育の授業に備えてそれ以外の強化は居眠りするという徹底ぶり。

 

それを見た学級委員でヒロインの岡﨑亜紀が少しは勉強するように風間を注意した二人のやり取りはこんな感じだった

 

岡崎「あんたも少しは勉強しなさいよ」

風間「勉強してどうするの?」

岡﨑「勉強したらいい高校に入れるでしょ?」

風間「いい高校に入ってどうするの?」

岡﨑「いい高校に入ったら、いい大学に入れるでしょ?」

風間「いい大学に入ってどうするの?」

岡﨑「いい大学に入ったら、いい会社に入れるでしょ?」

風間「いい会社に入ってどうするの?」

岡﨑「う~ん・・・、その~、だからぁ!(怒)」

 

このドラマが放映されていたのが1987年。当時はまだ「良い学校 → 良い会社」が当たり前とされていた時代。今の時代になって考えてみると風間の戦略はあながち間違っていなかったと思えないだろうか? キングカズこと三浦知良も、テニスの錦織圭も若い頃に海外に渡って勉強とは関係なく己のスキルを磨いて一流になった。

 

学校が教えてきた「良い学校 → 良い会社 → 幸せ」という王道ルートは国家という幻想が成り立っていたからこそ通用した暫定的な成功ルートであり、そこから放り出された我々は、カズや錦織のように人生を自らの手で切り拓いていく必要があるのだ。

 

そのためには学校、そして会社で「常識」とされていたものを一つ一つ疑ってかかり、自分の頭で整理していく必要がある。それは宗教などからの「脱洗脳」プロセスに似ているかもしれない。

 

その際に堀江氏のこの著書は非常に参考になるだろう。なぜなら彼は「やりたいことを躊躇なくやってしまう系」のカリスマなのだから。ブレーキを踏んでいては前には進めない。その外し方を彼は知っている。

 

 

 

 

 

 

ちなみに、この間娘が入った高校の入学式で、学校の先生が「我々は学力レベルだけで生徒の進路を決めることはありません。その子の将来の希望、なりたいものを考慮して一緒に考えていきます」と言っていた。学校も変わってきてるのかもしれない。